「優しき歌」との出会い
半世紀以上という時間、空間を超えて、今もなお新鮮で慕わしい、立原道造の詩。立原文学の内蔵する永遠の青春性は、若い人たちの大きな魅力の一つだと言えよう。
その詩に作曲された合唱曲は数多い。私がその作品を取り上げるきっかけとなったのは、昭和55年に発足した『立原道造を偲ぶ会』であった。その会は立原が生まれた東京日本橋において、年1回その年から開かれ、昭和63年まで9年間続いた。立原にゆかりのある人たちの講演を中心とした会であったが、その発起人の一人、詩人の鈴木亨氏が、私の伯父であったという関係で、立原道造作詩による合唱曲を若い人たちに歌ってほしいという依頼を受けた。
私がその当時指揮していた都立八潮高校の合唱部が出演することになった。大変光栄な話しであったが、立原作品の合唱曲をあまり知っていたわけでもないし、今でこそ新しい曲が沢山生まれているが、当時は曲も少なかった。毎回同じ曲を歌うこともできないので、曲捜しに生徒と一緒に懸命であった。あちこちの楽譜屋を捜し求めていた時に、偶然合唱センターで見つけた曲が、小林秀雄作曲「優しき歌」であった。
貸し出しをしてもらえないということで、生徒が一曲一曲写譜するしか方法はなかった。多分コピーもできなかったのであろう。たどたどしいながらも生徒の心のこもった楽譜で練習を始めた。しかし全曲写譜するのも大変だということで、音楽之友社に問い合わせたが、何しろ古い楽譜なので、絶版になってしまったとのこと。一度はあきらめかけたが、音友の方のご厚意で、再度倉庫を捜してもらったところ、何と6部見つかったのだ。皆大喜びでその少し古びた楽譜を全部買い求め、大切に使ったのである。この曲は立原道造の世界を彷彿とさせる透明で実に美しい曲であった。
そうして昭和55年『立原道造を偲ぶ会』第1回で、「優しき歌」より"爽やかな五月に"と“さびしき野辺“ "序の歌"、萩原英彦作曲の3曲を歌った。その年のNHK全国学校音楽コンクールの自由曲でもこの曲を歌いたいという生徒の希望もあり、ア・カペラを自由曲にするのは大変冒険であったが、その中から「また落葉林で」を取り上げ、全国コンクールで2位に選ばれた。すっかりこの詩と曲に魅せられ、次の年でも「爽やかな五月に」を歌い、遂に全国1位に輝いた。
その時小林秀雄先生に「演奏の巧みさのみならず、皆さんのすがすがしいマナーや、真に音楽する姿には心の底から感服します。高校生のクラブが到達した、最高の実例を見る思いがした」というお言葉をいただいたことは忘れられない。
立原道造そして小林秀雄作曲「優しき歌」の衝撃的な出会い、また小林先生のと出会いは、私の合唱人生に大きな財産となり、大変幸せに思っている。
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