印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |




平松混声合唱団 Official Web Site

私の考える合唱とは

私の考える合唱とは、ベートーベンの第九の「合唱」のような大合唱ではない。せめて20人前後の訓練された歌い手が、すべてのジャンルの曲を歌い分けるという、小回りのきく合唱である。合唱というと大人数ではないと満足しない人が多いが、合唱は人数さえ集まれば、お金もかからず手軽にできる音楽である。しかしその反面、これ程難しくて、奥の深い音楽はないと思っている。音楽大学の声楽家では、昔から合唱を軽視する傾向がある。大変残念なことだ。一般的にも合唱音楽はマイナーなイメージがある。それはなぜだろう。


よく「合唱臭い」という言葉を聞くことがある。それはいくつかの要素がある。それはまず発声の面である。日本人特有の響きの低く重い暗い声が、ソロの要素の強い、のどを鳴らす声作りをしてしまい、ある作品(ジャンル)は対応できても、ほかのジャンルに適応できず、歌い方が同じになってしまう。つまり、ルネサンス期の宗教などのハーモニーはすぐれているが、邦人作品の表現(言葉)やポピュラー作品なども「合唱」という一種独特な色に染まってしまうことが多い。また、技巧的な難曲でこれが合唱だと言わんばかりに、独断的に迫ってくるように思えるものもある。言葉(内容)はほとんど理解できない。歌というより、音響デザイン的要素が強く、聴く側は「これが現代音楽なのか、難曲を見事に歌ってすごい!」とは思うが、心の底からの感動が薄い。最近の中学・高校のコンクールでも、このような選曲が多く、残念に思う。皆同じように聴こえてしまうのだ。技術的難曲の訓練もよいが、この時期は、詩、歌の中から心を学んでほしい。


私は合唱(歌)だからこそ、言葉のメッセージとして詩(言葉)の細部に注意を払い、詩の心を聞き手に伝えることが最も重要だと思っている。それが伝わらなければ表現とは言えない。音楽は人の心を躍らせ、人の魂を揺り動かし、人の気持ちをしみじみとさせる、心温まるものである。聴いて下さるお客様が本当に楽しんで頂けるよう、演奏者はすべての面で最大の努力をしなければならない。自己満足であったり、独善的な独り善がりの演奏になってはならないと思っている。


歌はいろいろなジャンルに分けられる。オペラ、リート、宗教曲、ポピュラー、ジャズ、艶歌(歌謡曲)、童謡など。そのそれぞれに歴史とともにすばらしい世界を持っていて、歌い手たちはそのジャンルに精通している。しかし、それらをいざ“歌い分ける”となると非常に難しい。アメリカには、オペラとジャズを見事に歌い分ける歌手がいる。それはその歌に対する声(発声)、リズムの取り方、フィーリング(表現方法)などの違いをしっかりと解っていて、観客に伝えられるからだ。


合唱はそれらすべての歌を歌うことができる。これが最大の魅力なのだ。だからこそ“歌い分け”が可能な発声を身につけなければならない。当然ソロと合唱の発声も異なる。アメリカのロジェ・ワーグナー合唱団の公開レッスンを聴いた時、オペラ曲を歌う声と合唱の声の歌い方を実際にやってくれた。その時は、「これだー!」と心の中で叫んでいた。その他にも、曲によって並び方を変えたり、細部にわたり気を配るのだ。昨年10月にもロジェ・ワーグナー合唱団は来日し、平混はそのリハーサルを聞くことを許された。しかし、その声作りは一朝一夕にはできるものではない。非常に難しい。日本の合唱団でそれができる合唱団を今まで聴いたことがない。それもそのはず、声楽を勉強する人のほとんどはオペラ歌手を目指している。合唱に適する発声、特に日本語を美しく伝える発声を研究しなければならないと思っている。


私はすべての歌の世界を合唱を通してみなさまにメッセージとして伝えることができたら、合唱は虹色に輝くだろうと希望を持っている。そして、年配の方から子供までの幅広い層の方々に「合唱ってこんなにすばらしいんだ!」と言って頂けるような、合唱団を目指していきたい。