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平松混声合唱団 Official Web Site

コンクール雑感

今年もNHK全国学校音楽コンクールが終わった。今年で72回と言うから、その歴史は古い。私も15年以上コンクールに出場してきたが、中学・高校生の純粋な心、無限の可能性に触れ、多くのことを学ばせてもらった。そして、沢山の財産と想い出を得ることができた。生徒と接する上で、常に心がけてきたことは、心を学ぶということである。


つまり、人間を磨くことによって、初めて音楽に命が生まれる。それなくしては、音楽は語れない。これは、技術的なことを教えるよりはるかに難しい。一つの目標に向かって、体を張り、全力でぶつかる。その切磋琢磨するエネルギーこそ音楽の原点である。その一年の成果を問われるコンクール。歌い終わった安堵感もつかの間、審査発表が待っている。この時が一番緊張する時だ。心臓が飛び出そうになるとは、こういう時なのであろう。この一瞬に天と地に分かれてしまうのだから、一年間の努力のすべてが、この時にかかっている。しかも、審査という他人の判断で決まってしまうのだから、当然、納得のいかないこともある。ここが、スポーツ(一部のスポーツを除いて)と大きく異なる。私は、その結果によって一週間位も立ち直れないことがあった。3年間頑張り、心の通った3年生に最高の結果を与えてあげたい。その想いが強ければ強いほど、そのショックは大きく、また、その喜びは大きい。だからこそ、審査をする人たちの責任は重大である。私も、今でこそ審査をする立場が多いが、合唱は本当に奥が深く、長い間の研磨を必要とする。もちろん、私もまだその最中であるが、今までに非常に曖昧な講評に苦しめられたこともあったので、その学校の演奏(結果)に対する根拠を明確にし、納得できる審査を心がけている。しかし、いずれにしても心苦しい一瞬である。


それにしても、今のコンクールの内容は様変わりしてしまったものだ。流行(はやり)の作曲家の作品に偏り、技術偏重、難曲志向で内容の乏しい作品を自由曲にする学校が多い。それが、中学校にも及んでいる。また、どこから探してきたのだろうと思うような外国曲を歌い、表面的な仕上げのよさを狙った学校も増えた。もっと、中学生・高校生の命を輝かせる作品があるはずなのに。コンクールとは音楽の内面・表現を競うものであって、技術や難易度だけを競うものであってはならないと思うだけに、全く残念である。おそらく、上位に入賞した学校の自由曲をそのまま取り上げる傾向が、このような流行を生むのだろう。全国の合唱に携わる先生は、自分の音楽(合唱)に対する信念、ポリシー、個性を大切にして、人真似でない、自分だけしか創れない音楽を見つけてほしい。


私が参加していた頃は、本当にすばらしい学校があった。昭和55年当時、私は都立八潮高校の合唱部を指導していた。その年の全国1位に東北代表、山形西高が選ばれた。八潮は残念ながら2位であった。普通であれば、悔しい思いをするはずだが、山形西高の自由曲は高田三郎作曲の「白鳥」という曲だった。この学校は毎年必ず高田先生の作品を取り上げ、すばらしい合唱を聴かせてくれていたが、この年の演奏は特にすばらしく、白鳥が湖に張られた氷に足を取られ、もがき苦しみ、それでも空高く舞い上がるという内容の歌だが、その光景が目に浮かび、それは見事に表現されていて、涙がとまらなかった。今、その時のテープを聴いても感動する。


このように、当時のコンクールは、その学校(先生)の個性、地域の特色があり、音楽に人間の奥深に潜む感情が息づいていた。だから、一般の人達にも合唱のすばらしさが十分伝わってきたのだと思う。 しかし、現在のコンクールには、合唱界のすばらしい発展と同時に、それは何か合唱界にのみ通じる独特の言語で満たされた、一風変わった世界に引き込まれてしまっているように思われる。課題曲も後々まで歌い継がれていく作品であってほしい。


確かに、現在の中学生・高校生は音程の正確さ、声の安定感など技術面での向上は著しい。しかし、発声の面では少し問題があると思う。一言で言うと、抽象的であるが、作られた美しさなのである。つまり、自然な生活から出てきた、素朴な美しさではないような気がする。したがって、ある作品には大変効果があるものの、単純ではあるが、素朴な美しい旋律や繊細な表現、音楽の自然な息遣いやフレージングには適さない。例えば、今年のコンクールでも、課題曲の詩をいろいろな角度からアプローチしても、その詩をメッセージする手段である発声の問題によって、思うように伝わっていない学校が多かったように思う。


いつの時代も、中学生・高校生は同じである。全国の合唱を指導する先生方は、現在の合唱界の傾向を中学・高校生に向けないでほしい。そして、早くそのことに気づいて、大向こうに受けや表面的な仕上げの良さだけを狙わない、中学・高校生の真摯な演奏の中に、熱い感情が燃えた、命輝く合唱が増えていくことを願う。


合唱のジャンルは広い。そのすべてに対応できる発声(技術)を作り上げることは、至難のわざである。しかし、私はそれに挑戦していきたい。

「優しき歌」との出会い

半世紀以上という時間、空間を超えて、今もなお新鮮で慕わしい、立原道造の詩。立原文学の内蔵する永遠の青春性は、若い人たちの大きな魅力の一つだと言えよう。その詩に作曲された合唱曲は数多い。私がその作品を取り上げるきっかけとなったのは、昭和55年に

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平混30年で思うこと

昭和50年代から60年代にかけて、私が指導していた都立八潮高校は、NHK、全日本コンクールで全国レベルにあった。毎年3年生とのコンクールにかける想いは熱かった。その年の3年生との結びつきが、演奏に反映するからだ。その結びつきが強ければ強いほど、

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コンクールに出場して思うこと

最近私立中学高校生のコーラス部を指導している。毎年NHKコンクールに出場しているので、指導をして欲しいと言うのだ。しかし今さらコンクールと言われても、もう私にとっては過去の思い出になってしまっている。たしかに今までに15年以上コンクールに出場し、

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演奏の緊張と喜び

様々なコンサートが毎日どこかで行われている。特に東京ではクラシックからポピュラーを含めると、一日だけでも相当な数になる。コンサートに行くとよく受付で袋詰めにしたチラシをどっさりくれる。荷物になるので一通り目を通して捨てて帰ることもあるが、めぼしい

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ポピュラー音楽への想い

たしかあれは、私が中学生の頃だったと思う。当時アメリカのビルボード誌の上位にランクされていた人気歌手の歌を夢中で聴いていたのは。「ダイアナ」 や最近では「マイウェイ」で有名なポール・アンカ、「恋の片道切符」などのヒット曲がある、ニール・セダカであ

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コンクール雑感

今年もNHK全国学校音楽コンクールが終わった。今年で72回と言うから、その歴史は古い。私も15年以上コンクールに出場してきたが、中学・高校生の純粋な心、無限の可能性に触れ、多くのことを学ばせてもらった。そして、沢山の財産と想い出を得ることができた。生徒と

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音楽に流れる命の輝き

私は世田谷区に住んでいるが、ちょうど家の前が区立中学校で、朝ねむい目をこすりながら家を飛び出すと、その中学校から合唱が響いてきた。「あ、そうか校内合唱コンクールの季節で、朝早くからがんばって練習しているのだ」何か嬉しくなり、私も頑張らなければと、

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合唱とメッセージ 

表現するということは、どういうことなのだろう。
演奏する人は、その作品に共感し、その上創造性を膨らませて、自分の思い、気持ちを演奏を通して、聴き手に 伝える。その気持ちがメッセージとして伝わったとき、初めて表現は成立するのである。つまり

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私の心を動かした人達

長年演奏の仕事をしていると、自分の演奏への考え方、表現がかなり
その時々によって変化していることに気づく。それは、すぐれた演奏に出会ったり、いろいろな人達との出会いにより、その影響を受けて変わってきているのだと思う。

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私の考える合唱とは

私の考える合唱とは、ベートーベンの第九の 「合唱」のような大合唱ではない。せめて20人前後の訓練された歌い 手が、すべてのジャンルの曲を歌い分けるという、小回りのきく合唱である。合唱というと大人数ではないと満足しない人が多いが、合唱は人数さえ集まれば、

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クラリネット、そして歌。

私は高一の夏からクラリネットを習い始めた。それまではクラリネットという実物の楽器を見たことも触ったこともなかった。それなのに、なぜ興味を持ったのか。それは、あのすばらしい音がたまらなく好きだったからだ。気品があり、まろやかでやさしく、奥深い。その

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