今もなお新鮮で慕わしい立原道造の詩の世界[後編]
適度なアゴーギクで言葉のニュアンスを
しかし現在の合唱界において、特にコンクール等で、依然として言葉を無視した、また言葉の意味の理解に苦しむ、難曲が多く取り上げられている。それらの選曲が一流の合唱団の証と言わんばかりである。我が国の合唱界は近年とりわけ素晴らしい発展を遂げている。が、発展と同時に、それは何か合唱界にのみ通じる独特な言語で満たされた、一風変わった世界を形成しているように私は思う。
技術、声への偏重、これは発展のために必要なことは否定できないにしても、音楽の自然な息遣い、フレージング、そして人間の深奥に潜む感情をどこかに置き忘れてしまっているように思われる。
高校の部においてもその傾向が強い。実に残念なことである。高校のクラブ活動で培った、心条を糧とした若者の命を輝かせる音楽の場であるはずなのに、難度を競うだけであったとしたらあまりにもむなしい。日本人の合唱だからこそ、せめて高校生には、日本語の心のメッセージを大切にした音楽であってほしい。合唱指導者は、風潮に流されるのではなく、もっと主体性(ポリシー)をもつべきではないだろうか。
もう一曲、高校生がコンクールの自由曲に多く取り上げる曲に、尾形敏幸作曲、「風に寄せて“その1"」がある。この曲は昭和57年、全日本合唱連盟発刊の「ハーモニー』を読んでいた時に、全日本合唱連盟創作合唱コンクール第1位の曲として載っていた。
その当時、立原道造には、目がなかったものだから、すぐにピアノで弾いてみた。前奏を弾いていると、まるで美しい自然に魅せられ、その中に同化していくような気持になり、早速この曲を練習し始めた。若い作曲家のほとばしる情熱、溢れんばかりの感性、音一つにその繊細で、かつ大胆な色彩が所狭しとちりばめられている。もうすっかり気に入ってしまった。
この素敵な作品をより多くの若者に知ってほしくなり、音友のI氏に「ぜひ『教育音楽』の付録に載せてほしい」と話したが、高校生には少し難しいのでは、と最初は良い返事をいただけなかった。その後演奏を聴いてもらう機会もあり、「素晴らしい曲なので、やはり載せましょう」と言っていただき、早速作曲者に連絡をし、それが実現した。それからレコーディングの話しもあり、見事に大ヒットをとげたのである。
58年には、“その2“"その5"が加えられ、組曲として平松混声合唱団が初演させていただいた。偶然今年の5月に再びI氏からの依頼で、ひさしぶりに中学生向けの混三の「風に寄せて”その1”」を録音した。根強い人気に驚いている。
この曲の演奏ポイントは、一貫した流れを失わずに、その反面声部が多いので分厚い音の固まりの流れにならないように注意すべきであろう。やはり前にも述べたように、決して咽喉で押した太い声ではなく、美しいひびきで言葉のニュアンスを適度なアゴーギクで表現したい。
その他、今までに取り上げた立原道造作詩の作品を上げてみる。
◇尾形敏幸作曲“憩らい"−薊のすきな子に−、“虹の輪"、“浅き春に寄せて"“夢みたものは"
◇鈴木輝昭作曲「四つの優しき歌」“序の歌"“さびしき野辺"“樹木の影に"“朝に"
◇石原真作曲"風のうたった歌その1"
◇萩原英彦作曲「優しき歌」より“序の歌"
◇牧野統作曲“夢みたものは"
◇飯沼信義作曲“麦藁帽子"
◇鈴木行一作曲“虹の輪"
いずれにしても立原道造作品の演奏にあたっては、立原の人生、作品について多くのことを知るべきではないだろうか。私は幸いにも「立原道造を偲ぶ会」に出席させていただき、沢山の方々のお話しを聞くことができた。その思いを、私なりに歌ってきたつもりである。これからも立原道造のような詩人の魂が、合唱曲によって、新鮮に蘇ってほしいと願う。